拓大紅陵・小枝守監督、法政大学・山中正竹監督、そしてシダックス・野村克也監督と数々の名将から直接指導を受けた杉本氏。会社員となった今でも、その頃の教えが役に立っているという。今回は幼い頃から高校時代までを振り返ってもらった。
――杉本さんが野球に興味を持つキッカケから教えてください。
杉本忠(以下 杉本):僕は4人兄弟で、兄が2人います。その兄と父の影響で野球を観るようになりました。生まれは千葉県、父親の影響で巨人ファンでしたね。
――野球を始めた時のポジションは?
杉本:小学生の時に始めて、ずっとピッチャーです。一応、野手とかも経験はしましたけど。当時はジャイアンツの槙原寛己さんのファンでした。ただ投手として尊敬していたのは桑田真澄さんですね。中学生の時、僕は身長も低かったので(苦笑)。
桑田さんは身長が低くても140km/h以上の球速がありました。小柄なピッチャーでも打者を抑えられた。そういうところを参考にしていました。
――杉本さんの学生時代、野球の競技人口はどうでしたか?
杉本:多かったですよ。ただ1993年に開幕したJリーグの影響もあり、サッカー人口も増えていました。比率的には野球とサッカーは同じくらいですね。なによりも影響が大きかったのは「キャプテン翼」ですね。僕も小学校3,4年生の頃、サッカーをやりたくて親父と揉めたのを覚えています(笑)。
通っていた小学校にサッカー部はありましたが野球部はなかった。だから町内会の野球クラブに所属していました。野球クラブの練習は土日、平日は時間があったので「サッカー部に入りたい」と父親に相談したら、見事に怒られましたね(笑)。
野球とは別に、幼稚園から水泳は続けていました。だから今でも水泳は得意です。
――中学校には野球部がありましたか?
杉本:中学校では、野球と水泳のどちらかを選択しなければいけません。水泳関係者からは「水泳を続けた方がいいよ」と言われましたが、個人的には野球を続けたかったので水泳を諦めました。中学の野球部ではピッチャー。ただ弱小チームでしたね、大会では、いつも一回戦負け(笑)
たまたま中学三年の時、転任してきた井上先生が拓殖大学紅陵高等学校(以下、拓大紅陵)の名将・小枝守監督の教え子だったんです。本当は別の高校へ進学しようと思っていたのですが、井上先生が「お前のことを見たい人がいる」と言われ、弱小チームであった市川二中に小枝監督が来てくれ父親を説得、拓大紅陵の寮に入ることになりました。野球ファンの父は、かなり舞い上がっていましたね(笑)。
――親孝行じゃないですか(笑)ところで当時の拓大紅陵の野球部のレベルは高かったのですか?
杉本:拓大紅陵OBには、オリックスの小川博文さんやヤクルトの飯田哲也さんがいました。小枝監督になってから春の選抜大会4回、夏の大会5回、合計で甲子園に9回出場しています。
――高校入学して、即レギュラーでしたか?
杉本:いやいや、レベルが高いですから拓大紅陵は(苦笑)。僕自身、そんなに球は遅い方ではありませんでしたが、それ以上に2,3年生の力が凄かったですね。小枝監督には期待して頂きましたが、1年生の秋に右肘の怪我をしました。変化球を投げた時、違和感を覚えましたね。そこから2年生の夏まで実戦から離れていました。ランニングとトレーニングのみ。
――1年間も投げられなかったことで、心が折れませんでしたか?
杉本:体力に自信があったので、怪我が治れば何とかなるだろうと思っていました(笑)。2年生の夏以降に投げ始めましたね。
高校3年生の時、拓大紅陵は4年ぶり夏の甲子園に出場。その時はレギュラーとして出場していました。
――高校2年生の夏に怪我から復帰してレギュラーに定着するまで、どのくらいの期間かかりましたか?
杉本:2年生の秋の大会のレギュラーメンバーになっていましたね。夏の大会で3年生が抜けたら背番号を貰いました。小枝監督には期待されていたと思います。3年生の夏に向けて少しずつ投げていました。
拓大紅陵は冬場行う「朝練」が有名でした。朝3時半に起きて4時にはトレーニング開始。冬なので真っ暗な中のトレーニングになります。ボールには触らず、みっちり体を鍛え上げます。体力の限界まで行うので、授業中は爆睡でしたね(笑)。
――午後の練習は何時から行うのですか?
杉本:午後の練習は軽めですね。朝練がほとんどメインだったので。ちょっとしたランニングやトレーニングをして終わりですね。現在は、色々と行われていないようです。
1年生と2年生の時、実質冬のトレーニングを2回行いますが、冬を越えると肉体がみるみる鍛え上げられるのが分かります。特に2年生の冬は、体に力がみなぎるのが分かります。ボールが軽く感じられるというか。高校入学時はスピードが130km/h未満ですが、卒業する頃には当たり前のように130km/h後半を記録するようになりました。
――杉本さんが3年生の時、拓大紅陵が4年ぶりの甲子園出場だったので、地元はかなり盛り上がったのではないですか?
杉本:3年に1度くらいのペースで、定期的に甲子園出場していました。
――やはり甲子園のマウンドは緊張しましたか?
杉本:拓大紅陵は千葉県では名前が知られていますが、関東エリアで見ると桐蔭学園や帝京など強豪校は沢山ありました。
当時の桐蔭学園には副島孔太、一つ下に高橋由伸がいました。一つ上には西武で活躍した高木大成さん。その流れで桐蔭は強かったですね。甲子園開会式の入場時って、並んでいる時に沢山の関係者がきます。
全国でも有名だった神奈川代表の桐蔭と東東京代表の帝京に挟まれて舞い上がっていた記憶があります。ですから僕たち拓大紅陵はダークホース中のダークホースとして甲子園に出場しているので、そこまでプレッシャーは感じませんでした。
でも、甲子園の決勝は地鳴りがしました。勝ち上がっていくとメディアも注目してくれるので、普通の高校生が経験しないことを経験できたのは大きかったですね。
出場していない人からすると「ちょっと天狗になっているんじゃないの?」とかも言われましたね。ただ僕は甲子園では、結果を出していないので良い思い出もないですし、天狗にもなれなかったですね(笑)
唯一思い出は、その時の拓大紅陵は4人のピッチャーで勝ち上がって行きました。
それも一人一人がタイプの違うビッチャー。僕が右のオーバースロー、エース冨樫富夫はサイドスロー、左の多田昌弘がいて、アンダースローの紺野恵治。当時としてはめずらしい投手複数制で、4試合で異なる4人が勝ち投手となりました。多分、甲子園史上初めてのことだったと思います。
今の高校野球はエース1人で勝ち上がっていくのが主流になっています。ただ、これから投球制限が設けられる。高校野球でも理想なのが「豊富な投手陣」になると思います。大学野球も社会人野球も、ましてやプロ野球なんて、長いシーズンをエース中心に何人かの投手で回して行きます。
これは持論なのですが、高校時代にエース1人で投げ抜くと、「見えない疲労」が溜まります。つまり若い時の連投による肩肘への負荷が、何年後か故障につながる要因になるケースがある。
本当は試合後、毎回疲労した箇所のアフターケアをしたり、継続的に筋力強化をすれば投手人生は長くなります。しかし若い時は無理が効いてしまうし、勝ちたい気持ちが先行してしまうんです。
疲労や痛みを抱えたままにしておくと、長く野球をやる上で蓄積されます。そういった意味では、小枝監督の指示の元、各投手が適度に休息を入れる「甲子園を投手4人で勝ち上がっていく」ということが大きな財産になっていますね。
――杉本さんは、高校を卒業したあと、プロには行かなかったのですか?
杉本:「プロに行きたい」というのは小さい頃からの夢でした。ただ自分から「僕プロに行きたいです」というタイプの人間ではなく、そういう流れがあればいいなぁ、と思っていました。甲子園では結果を出すことが出来なかったので、改めて大学で頑張ろうと。そして法政大学の野球部の監督から話を頂き、進学しました。
<(2)に続く>
<プロフィール>
杉本忠:1975年生まれ千葉県出身。父と兄の影響で小学生から野球を始める。その後、拓大紅陵に進学。高校3年で甲子園に出場し準優勝。大学卒業後、ヨークベニマルで活躍。だが野球部廃部に伴い、シダックスに移籍。野村克也氏より指導を受ける。現在、袖ヶ浦シニア等でコーチとして後進の育成に携わる。
取材・文/大楽聡詞
コメント